Serial fiction / 20+

白線の外側

昼の肩書きと、夜の名前。そのあいだに引いた一本の線を、二人はいつまで「越えない」と呼べるのだろう。

最新掲載
一話
約400字
舞台
架空の港町
著者
文月
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雨上がりの架空の港町。白線の続く道を、少し距離を残した二人の成人が同じ方向へ歩く後ろ姿。

EPISODE 001

白い線

雨の上がった木曜日、桐生航平は、古書店の前で足を止めた。修理を終えた真鍮のランプを、布で包んで抱えていた。港へ続く道には、塗り直されたばかりの白線が光っている。

「夜の方が、きれいなんですね」

店員の水城澪が、灯ったガラスをのぞきこんだ。二十九歳。昼は古い本を売り、閉店後は自分の手で一冊の本を綴じている。航平は三十七歳で、壊れた灯具を直す小さな工房を営んでいた。

「暗くならないと、分からないものもあります」

そう答えると、澪はランプから目を離した。仕事の話としては、少し余計な言葉だった。修理代の封筒を受け取り、航平は礼を言った。もう帰る理由は整っているのに、二人とも扉の方を見なかった。

帰り道、航平は白線の外側を歩いた。背後で店の明かりが消えるまで、振り返らなかった。

その夜、澪は綴じかけの本を閉じ、名前を置いて過ごせる場所を探した。青い画面の奥で、一羽の鳥が止まり木にいた。

EPISODE 002

送らない一行

夜の机に、真鍮のランプ、冷めた紅茶、綴じかけの本、手帳、裏返した領収書が置かれ、窓に灯りが映っている。

澪は画面の鳥を見ながら、冷めた紅茶をひと口飲んだ。「夜のとまり木」。その奥に、灯りについての短い文章があった。

〈灯りを残すのは、誰かを待つためとは限らない。〉

最後の一行を、二度読んだ。机には綴じかけの本があり、窓には、今日戻ってきたランプの丸い光が映っている。

手紙の欄を開くと、入力した文章は送信されない、と書いてあった。少し拍子抜けして、それから肩の力が抜けた。

「直せるものと、そのままにするもの。どうやって決めるのですか」

書いてみて、消した。文章を書いた人への問いなのか、ランプを届けた人への問いなのか、自分でも分からなかった。

今度は短く打った。

「今夜は、灯りを消したくありません」

誰にも届かない言葉なのに、書いた途端、部屋に誰かを招き入れたような気がした。

澪はその一行を手帳に写し、画面の文字を消した。机の端に置いた修理の領収書を、捨てる紙の束から戻した。

裏には、次に不具合があれば、と渡された航平の連絡先があった。

EPISODE 003

閉店十五分前

閉店後の古書店。木のカウンターに薄い白磁と少し欠けた陶器の二つのカップ、開いた短編集、本を収めた紙袋が置かれ、二人の成人の手が離れて添えられている。

翌日の閉店十五分前、航平はまた古書店の前にいた。今日は何も抱えていない。そのことが、昨日より落ち着かなかった。

「ランプなら、ちゃんと灯っています」

澪に言われ、航平は入口で笑った。

「今日は、本を」

嘘ではなかった。ただ、別の店でも買える本だった。

勧められた短編集を開くと、鉛筆で引かれた線があった。知らない人が、知らない夜に、この一行で手を止めた。航平は少し迷ってから、その本を選んだ。

会計を終えると、澪が棚の向こうの時計を見た。

「このあと、お茶を淹れるんです。閉めるまで待てますか」

航平は本を紙袋に収めた。返事を急いで、用意してきた人のように見られたくなかった。黙っている方が不自然だと気づいたときには、もう遅かった。

「待てます」

澪はうなずき、先に自分のカップを出した。もう一つを選ぶ指が、棚の前で止まる。

「薄いのと、少し欠けたの。どちらがいいですか」

「あなたがいつも使う方ではないものを」

「それだと、両方なんです」

初めて、二人の笑う時間が重なった。

EPISODE 004

読んでもいい頁

閉店後の古書店の作業机。真鍮のランプが綴じかけの本を照らし、糸の通った針を収めた小皿と鉛筆、机の中央から離したカップが置かれている。

入口の札を裏返すと、店は急に部屋になった。澪は作業机を片づけ、糸の通った針を小皿へ戻した。

航平が見ているのに気づき、綴じかけの本を置く。

「自分で書いたものです。まだ、売り物じゃありません」

「開いても?」

澪はうなずきかけて、手を添えた。表紙の次を二枚飛ばし、そこで止める。

「ここからなら」

航平は、その頁だけを読んだ。雨の日に、二人の人間が別々の傘を持って同じ道を歩く話だった。短いのに、読み終えたあとも目を上げられなかった。

「続きは、ないんですか」

「まだ。片方を、先に帰すか迷っていて」

ランプの光が、机の中央に落ちていた。航平はカップをそこから少しずらした。

「帰ってから、また会うこともできます」

澪は鉛筆を取ったが、何も書かなかった。

やがて航平が席を立つと、彼女は表紙と紙の間に、細い栞を挟んだ。

「ここ、覚えておいてください」

「本は、置いていくんですよね」

「はい」

澪は初めて、彼がもう一度来ることを、言葉の中に入れた。

EPISODE 005

同じ灯り

春の夜の架空の港町。白線の手前で紙袋を持った航平が振り返り、少し離れた古書店の戸口から澪が見ている。店内では真鍮のランプが低く灯っている。

帰り際、澪はランプの明るさを一段落とした。航平は扉に手を掛けたまま振り向いた。

「もう消しますか」

「少し、書いてから。昨日、灯りについての文章を読んだんです」

言い終える前に、思い出した一文が口に出た。

「灯りを残すのは、誰かを待つためとは限らない」

航平の手が、扉から離れた。

「鳥のいるところですか」

澪はカップを持ったまま、うなずいた。同じ文章を読んだ。それだけのことなのに、昨夜の自分の部屋を、少し見られたような気がした。

「あの最後、私は少し違うと思いました」

「どこが?」

「待っていると、気づいていないだけかもしれません」

航平は返事をしなかった。澪も、どの文章をほかに読んだのか、誰かに手紙を書いたことがあるのか、尋ねなかった。

表へ出ると、風が紙袋を鳴らした。

航平は白線の手前で足を止めた。昨日と同じ場所だった。今日は振り返ると、澪がこちらを見ていた。

帰る方向を知っているのに、一瞬、間違えそうになった。

EPISODE 006

修理ではない用件

春の夕方の灯具修復工房。木の作業台に小さなカードが裏返して置かれ、作業用の伝票とは間を空けている。奥には真鍮の灯具部品と修復道具、手を拭く布がある。

土曜の昼、澪は領収書を手帳から抜いた。連絡先は分かっている。けれど、ランプはどこも壊れていなかった。

お礼ならもう言った。本の続きなら、店で話せばいい。用事を一つずつ並べるほど、本当の用事だけが残った。

澪は小さなカードを切り、自分の連絡先を書いた。その下に、少し間をあけた。

〈来週の金曜、閉店後に港を歩きませんか。修理のお願いではありません。澪〉

夕方、工房の開いた扉から声を掛けた。航平は作業台から顔を上げ、手を布で拭いた。

「今日は、これを」

カードを渡すときだけ、澪は目を合わせなかった。

航平は読み終えて、作業用の伝票とは別の場所に置いた。

「歩きたいです」

「まだ、一週間ありますけど」

「はい」

その返事が短くて、澪はやっと笑えた。

店に戻り、綴じかけの本を開いた。二人を別れさせるはずだった頁には、鉛筆の跡だけが残っていた。

消しゴムを手に取り、置いた。帰ってから、また会うこともできる。

彼の言葉を、今度は自分の物語の方へ返した。

EPISODE 007

小さな丸

春の月曜夜、架空の港町の古書店。真鍮のランプが、細い栞を挟んだ綴じかけの本、小さな丸だけを記した手帳、一本の鉛筆を照らしている。

月曜の閉店後、澪は綴じかけの本を開いた。細い栞は、航平が読んだ頁に残っている。

次の頁へ鉛筆を置く。金曜まで、あと四日。そう書きそうになり、手を止めた。物語の二人に、現実の予定を代わりに言わせるのは違う気がした。

店の時計が八時を打つ。澪は手帳を開き、金曜の欄に小さな丸だけをつけた。場所も、話したいことも書かなかった。決めすぎると、当日の自分が窮屈になる。

工房では、航平が受け取ったカードをもう一度読んでいた。返事はした。それ以上の確認は、まだ要らない。

最後の伝票を棚へ戻し、金曜の夕方だけ予定を空ける。カードは引き出しにしまわず、道具にも重ねなかった。

二人とも連絡をしなかった。

それでも、その夜の時間は、いつもより少しだけ形を持っていた。約束はまだ遠い。けれど、断っても変更してもよい余白ごと、二人の暮らしに置かれていた。

EPISODE 008

火曜日の埃

春の火曜日の夕方、架空の港町の古書店。木の仕分け台に開いた古い旅の随筆、そこから落ちた港の絵葉書、封筒、布が置かれ、三つの買い取り箱を真鍮のランプが照らしている。

火曜日、古書店には買い取りの箱が三つ届いた。澪は一冊ずつ背を拭き、値札のない棚へ並べた。旅の随筆から、古い港の絵葉書が落ちる。海は灰色で、桟橋には誰もいない。

「売り物ですか」

常連客に訊かれ、澪は首を振った。

「本の持ち主へ確認します」

絵葉書を封筒に入れ、箱の番号だけを書いた。自分の予定を重ねそうになって、やめた。港は港で、金曜はまだ金曜だった。

工房では、航平が卓上灯の古いコードを外していた。ねじを三つ、小皿へ分ける。新しいコードを通し、灯りがつくまで二度確かめた。

夕方、依頼主から電話があった。

「今日、受け取れますか」

「六時までは開けています」

約束に使わない言葉は、迷わず出た。航平はそれを少し可笑しく思った。

六時を過ぎ、澪は棚の埃を払い、航平は作業台を拭いた。二人とも金曜のことには触れない。触れなくても、忘れてはいなかった。待つためだけの一日ではなく、それぞれの仕事で満ちた火曜日だった。

EPISODE 009

空いた場所

春の水曜日の夕方、架空の港町の古書店。木の仕分け台に綴じかけの本と畳んだ布が置かれ、真鍮のランプが静かに照らしている。

水曜日の昼、買い取り箱の持ち主が古書店へ来た。年配の女性は、棚へ移した本を一冊ずつ確かめた。

澪は本と一緒に、封筒へ入れた絵葉書を差し出した。

「これは、売らない方がいいと思って」

女性は海の写真を見て、少し笑った。

「なくしたことにも気づいていなかったわ」

持ち帰る本の間へ、絵葉書が戻された。仕分け台には、その形だけ埃のない場所が残った。澪はすぐに別の本を置かず、布を畳んだ。

工房では、航平が直した卓上灯を依頼主へ渡した。点灯を一緒に確かめ、ねじの入っていた小皿を空にする。

「古い方のコードは?」

「こちらで処分していいですか」

返事を待ってから、箱へ入れた。

夕方、二人の手元には小さな空きができた。澪はそこへ綴じかけの本を置き、航平は作業台に次の灯具を運んだ。空いた場所は、急いで埋めなくてよかった。

金曜まで、あと二日。

数えたのは一度だけだった。

EPISODE 010

工房の遅い灯り

春の木曜夕方の灯具修復工房。木の作業台に台座を外した古い真鍮の灯具とねじの小皿があり、伏せた電話、時計、離して置いた伝票と小さなカードが見える。

木曜の夕方、港の空は暗くなりきらなかった。澪は綴じかけの本を布に包み、鞄の横へ置いた。金曜に持っていくかは、まだ決めない。

同じころ、工房へ別の灯具が届いた。古い真鍮の台座は外れ、配線も傷んでいる。依頼主は明日の夜までに点けたいと言った。航平は間に合うとは約束せず、点検から引き受けた。前日に返した卓上灯とは別の品だった。

伝票を作業台に置き、澪のカードとは間を空ける。時計を見る。黙って金曜を失くすのは、仕事の都合ではなく自分の選択になる。

航平は電話をかけた。

「急ぎの修理が入りました。金曜は短く歩くか、別の日にするか、相談したいです」

澪はすぐには答えなかった。窓の外に雨の気配がある。

「明日の昼まで考えてもいいですか」

「もちろんです。僕は、会いたいと思っています」

「私も。だから、ちゃんと決めたいです」

電話を伏せたあと、航平は灯具のねじを小皿へ分けた。仕事は仕事のまま、約束はまだ二人の手にあった。

EPISODE 011

五分の椅子

春の金曜夕方、架空の港町の古書店。入口近くの二つの椅子の間に二つのカップがあり、奥の別の作業机には布に包んだ綴じかけの本が置かれている。

金曜の昼、澪は店の奥から電話をかけた。手帳の丸は消していない。

「散歩は別の日にしましょう。でも、閉店前に少し顔を見たいです」

航平は点検中の灯具から手を離した。

「五分ほどなら、伺えます」

「では、お茶は一杯だけ」

夕方、澪は入口近くの椅子を二つ並べた。作業机には、布に包んだ綴じかけの本がある。持ち歩かずに済んだことを、少しだけ残念に思った。

航平が来ると、澪は湯を注いだ。時計を見たのは、彼の方だった。

「まだ、終わっていないんですね」

「はい。古いものは、開けてから分かることが多くて」

「本も、綴じると急に別の顔になります」

航平は作業机を見たが、布へ手を伸ばさなかった。

「その話、また聞きたいです」

澪は頷いた。散歩の代わりに、次の用事を作る必要はなかった。

五分が過ぎると、航平はカップを置いた。澪は引き止めず、戸口まで送る。港の方へは曲がらない後ろ姿を見て、今日は来てくれた、とだけ思った。手帳の丸の横に、短い線を引いた。

EPISODE 012

傷を残す、頁を替える

春の土曜午後、架空の港町の灯具修復工房。木の作業台の左右で、成人二人の手が古い真鍮灯具と水染みの一葉を別々に支える。綴じかけの本と鉛筆があり、机の中央は空いている。

土曜の午後、澪は綴じかけの本を工房へ持ってきた。散歩の日は、まだ決めない。航平は作業台の端を空け、自分の棚から古い灯具を下ろした。

真鍮の台座に、細い擦り傷がある。

「使うのに支障はないので、これは残そうと思います」

航平の親指が傷の手前で止まった。

「私なら、替えます」

澪は綴じる前の一葉を広げた。端に水染みがある。いつ濡らしたのか、もう覚えていなかった。

「失敗した日に、何度も戻される気がして」

航平は鉛筆を置いた。

「僕は、残っている方が安心します。なかったことにしなくて済むから」

その言葉に、澪は頁を引き寄せた。自分のやり直しが、何かを消す行為に聞こえた。

航平も、それに気づいた。

「澪さんの本を、残すべきだと言ったわけではありません」

「分かっています。でも、少し引っかかりました」

二人の手は、別々の物を支えていた。机の真ん中は空いている。澪は新しい紙を選びたいままだった。航平も傷を磨かなかった。次の言葉だけが、まだ決まらない。

EPISODE 013

紙の裏まで

春の土曜午後の灯具修復工房。顔の見えない澪が、窓の光に水染みのある一葉を透かす。作業台には鉛筆、古い真鍮灯具、綴じかけの本が離して置かれている。

机の真ん中には、置いた鉛筆だけが残っていた。澪は水染みの一葉を持ち上げ、光に透かした。薄い輪が紙の裏まで続いている。

「この紙を替えても、濡らしたことは覚えています」

航平は灯具の台座から手を離した。言い返すための言葉を、一つ飲み込む。

「さっきの言い方は、澪さんの手を止める言い方でした」

「止められたわけじゃないです」

澪は少し考えた。

「ただ、私が軽く消そうとしているように聞こえたので」

工房の窓に、午後の明るさが残っている。航平は傷のある台座を棚へ戻さず、作業台の端へ置いた。

「僕が安心する理由を、澪さんの本に当てはめました」

澪はうなずいた。うなずいても、引っかかりは全部なくならない。新しい紙を選ぶのは、帰ってから自分で決めるつもりだった。

「本は、今日は持って帰ります」

「はい」

航平は道具を片づける。澪も一葉を本の間に挟む。机の中央に、二人の物は置かれなかった。散歩の日も決めていない。それでも、次に話すときは今の続きからでいいと、澪は思った。

EPISODE 014

一本の鉛筆

春の土曜夕方、架空の港町の灯具修復工房。航平が木の作業台を布で拭き、脇に一本の鉛筆が残る。窓の外には夕景があり、顔は見えない。

工房の窓が暗くなるころ、航平は作業台を拭いた。澪が本を置いていた側に鉛筆が一本ある。さっき自分で置いたものだ。拾えば片づく。それだけのことを、すぐにはしなかった。

傷のある灯具は棚の下段に戻した。見えない位置に置いても、傷を消したことにはならない。そう考えたところで、また澪の頁を持ち出しそうになり、手を止める。似た言葉で片づける癖がある。

「別の話だな」

工房にいるのは自分だけだった。返事のない声は、思ったより軽い。

そのころ澪は、自宅の机で本を開いていた。水染みの一葉は、工房から持ち帰ったときと同じ場所に挟まっている。外すにも残すにも、まだ手が動かない。航平の言葉を思い返し、それを自分の判断の材料にしないよう、頁を閉じた。

湯を沸かす間、手帳の金曜の丸が目に入った。短い線を引いた日から、何も書き足していない。澪は手帳を裏返さず、台所へ行く。空欄は今日の出来事ではなく、まだこれからの時間だった。

EPISODE 015

窓辺の埃

春の日曜昼前、架空の港町の休みの古書店。木の机に綴じかけの本と水染みの一葉、窓辺に布がある。人物や読める文字は見えない。

日曜の朝、澪は古書店の鍵を開けた。店は休みだが、預かった本を棚へ戻す用事がある。昨日の話を思い出す前に、窓辺の埃が目に入った。布で拭くと、木目が少し明るくなる。

鞄には綴じかけの本がある。水染みの一葉は挟んだままだ。澪は取り出して、窓から離れた机に置いた。光に透かせば何か分かる気がしたが、分かるのは紙の薄さだけだった。替える理由も、残す理由も、まだ自分の言葉になっていない。

同じころ航平は工房の戸を開け、昨日の鉛筆を道具箱へ入れた。誰かの返事を待つような置き方をした自分が、少しおかしい。部品の数を確かめてから、古い灯具の傷を見た。澪の本とは別の物だ。そう言い直すのに、もう声は要らなかった。

昼前、澪は本を鞄へ戻した。手帳には短い線の先が空いている。店の入口で足を止め、閉め忘れた窓がないかを振り返る。明日もここへ来る。それだけは決まっていた。航平に話したいことはある。何を話すかは、まだ決めなくていい。

EPISODE 016

港まで二十分

春の金曜午後、架空の港町の道を、間を空けた二人が後ろ姿で歩く。遠くに漁網と海が見え、手は触れていない。

木曜の昼休み、澪は手帳の短い線を見た。金曜の予定は、まだ空白だ。店の紙袋を畳んでから、航平に短い文を送る。「明日、港を二十分だけ歩きませんか。仕事のあとでなくても、都合のいい時間に」

返事は夕方に来た。「歩きたいです。四時なら工房を閉めています」。澪は時刻だけ書き込んだ。綴じかけの本を持つかは、決めなかった。水染みの一葉は、まだその中にある。

金曜、二人は港の道で会った。航平の手には道具も伝票もない。「二十分、測りますか」「時計はあります。でも、急がなくていいです」。澪が笑い、先に歩き出す。波止場の端までは行かず、干してある網を遠くに見た。

澪は店で見つけた古い鉛筆の話をした。航平は朝、工房の窓に止まった鳥の話をした。紙のことは口にしない。話題を避けているのか、今日は要らないのか、まだ分からない。

帰り道、澪が「もう少し歩けます」と言った。航平は「僕も」と答えた。二人は次の角まで進んだ。そこから先の約束はしなかった。

つづく

次回:紙の話をしなかった二人は、次に何を選ぶのか。

閉店後の古書店。開いた本を挟む二つのカップと空いた二脚の椅子を、真鍮のランプが照らしている。
ふたつのカップ、その間。物語の風景

Dramatis personae

昼の顔

人物・職業・土地・出来事は創作です。管理人の経歴や実体験を示すものではありません。

01 / RESTORER

桐生 航平(37)

架空の港町で、古い灯具を修復する職人。使い込まれたものに残る時間を大切にしている。話すより先に、相手の言葉を待つ。

02 / BOOKSELLER

水城 澪(29)

古書店で働きながら、手製本を学ぶ女性。落ち着いて見えるが、仕事で使う言葉と、自分の気持ちを表す言葉の違いに戸惑っている。

03 / THE LINE

越えてはいけない線

仕事で知り合った二人。依頼と好意、礼儀と本心、そのあいだにある線をたどる。親切や支払いが、親密さを求める権利にはならない。

A note before the next night

禁断を、美化だけで終わらせない。

本作は、成人同士の欲望と選択を描くフィクションです。仕事の依頼や金銭のやり取りを、親密さの条件にしないこと。沈黙を承諾と決めつけず、同意はいつでも撤回できること。SM表現は現実の安全手順の代わりにならないことを物語の土台とします。